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無数でありひとつ

世の中は無数のありとあらゆるものでなりたっています。
しかも無数でありひとつです。
(?)ですか?

実際の世界はひとつとも数えることができない世界です。
ますます(??)でしょうか?
そもそも「数えることができる」という観念自体間違いだったんですね。

例えばある時点での地球上の人間の数を一人ひとり数えたとして69億5698万4275人だとしましょう。(数字は適当です)
イギリスのロンドンにあるグリニッジ天文台での2010年1月1日12:00ぴったしの時点で世界人口は何人と計測できたとします。(実際にはできませんが)
しかしどこからどこまでを人間だとすればいいのでしょう。

お母さんの胎内にいる赤ちゃんは人間でしょうか?
身体が胎内から出てこの世の空気に全身が包まれた瞬間から人間だとするなら、頭だけ出ている瞬間はどうでしょう?はたまた出生登録をしないと認められないでしょうか?
同じように死の定義付けもまた曖昧です。
きっちりとした定義が出来ない。定義は観念のかたまりですから各人によって異なるものです。
それでも考えられる幾通りもの定義を全て細かく設定して、それに沿って計測したとしても数えられた(と思っている)のはその定義の中だけの幻想としての数値でしかないのです。

この観念の例を具体的にあげるとするならこんな感じでしょうか。

今私の筆箱には鉛筆が5本入っています。

といっても「こういうものが鉛筆です」という定義がまず必要です。
マジックやボールペン、シャープペンシルとは違って
「鉛筆とはその長さが15cmくらいで、木を直径8mmくらいの円柱状または六角柱状に切り出したものを縦に半分に割って、その中に直径2mmくらいの黒鉛を練って固めたものを芯軸とした筆記用具である」と定めて、初めてそれに該当するものが5本入っていますよ と言えるわけです。

だからモノの数を数えると言うのは定義=観念がベースにあって成り立つものなんです。
でもその観念は実は幻想です。そんなものは本当はどこにもないのです。
その観念が私たちの思考の中に存在している(ように感じる)だけで実際はないんです。

この世にあるものは本来すべて繋がっていてひとつのものなんです。
本当は数えることが出来ないから「ひとつ」ということもできないんですけれども。
何にも分かれてなんかいないんです。頭の中で別れさせて認識して、個として区別させているだけなんですね。
「どこからどこまでがナニ」とか
「ここからここまでがナニ」なんて区切れないんです。
区切っているように感じているだけ。
そう思っているだけ。
みんなそう思っているだけなんです。

それでも社会生活を営むためにはこの観念の共通認識が必要です。
これが私たちみんなの中にあるから共通言語でお話も出来るし、文章を読んで理解でき、お金を使って買い物もできるのです。

観念(定義付け)自体が良いとか悪いとかではなく、観念が思考をつくっているということです。
この観念があらゆるものを区別し、選り分け、また抽象的な概念でまとめひとくくりにします。

唐突ですが「鳥の唐揚げ」を例に挙げると、どんな形をしていようが、大きかろうが小さかろうが、片栗粉で揚げていようが唐揚げ粉で揚げていようが、鶏肉を粉にまぶして高温の食用油で調理したものはみんな「鳥の唐揚げ」という料理でまとめてひとくくりにしています。

実際は調理した人によって個々に味付けも違い、大きさも、調理時間も、鶏肉の産地も部位もまったく違うものです。ひとつとして全く同じものはこの世に存在しません。
それぞれ全然違うものなのに頭の中では「鳥の唐揚げ」というひとつの観念でくくられ固定されているのです。
「今日の晩御飯は鳥の唐揚げだよ」と言われたら各々違う鳥の唐揚げが頭の中にイメージされることでしょう。
唐揚げ粉を使っていなければ「唐揚げではない」という観念もあるでしょうし、下味が酒としょうゆを使っていないものは「鳥の唐揚げ」と認めないという人もいるかもしれません。

私たちは数え切れないほどの観念であるものをひとつにまとめてみたり、同時に区別してみたりしているのです。
頭の中でそのような思考をしているだけで本来の世界はあるがままの区別されることのない繋がったひとつながりのものなのです。

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