「人は何のため生まれてくるのでしょう?」
誰もが一度は自分に問いかけたことのある問題ではないでしょうか。
答えから言ってしまうと「存在」です。
「ただ存在するためだけに生まれてくる」のです。
なにかをしたから価値があるのではありません。
何かが出来るから価値があるのではないのです。
本来は存在自体に価値があるのです。
私たちはその「存在」すること自体が当たりに思えて、そこに価値を見出せなくなってしまっています。しかし実はそこにこそ価値があるのです。
私たちは「こんな自分に価値なんかない」という自分への無価値観を持ってしまうことがあります。
それは潜在意識深くに沈んでいる「このままではいけない」という自己否定の気持ちにあります。
それ故に、人の役に立たなければ価値がないとか、お金を稼げないと価値がないとか、容姿が美しくなければ価値がない、仕事が出来なければ、いい人でいなければ・・・などと、私たちの外側にあるものを手に入れることによって、その欠落していると思っている価値を身にまとい自分に価値を付加しようとします。
本当はそんなことをしなくても価値はもともと備わっているのです。
このような外側にあるもので極端に自分の価値をあげようとしている人は、自分が無価値だと思っている裏返しの場合があります。
そのままのなんにもない自分には価値がないと思っているから、他の要素を取り込んで価値を上げようとします。そうしないと自分の存在意義を保てないと思ってしまっているのです。
幼少期に自己を否定され、受け入れてもらえなかったりした想いは大きな傷となり、そのまま人格形成のベースとなります。子供は親に気に入られようと必死です。
親にそっぽ向かれるということは死につながるという事をちゃんとわかっているからです。
親から虐待を受けていたり、構ってもらえなかったりという経験は大きな自己否定へとつながり、自分で自分の存在を受け入れることができない辛い観念が根付いてしまうことになります
虐待や無関心に扱われた状況下ではなく、しっかりとしたしつけの中でも、たくさんの自己否定へとつながる言葉が子供たちに投げかけられます。
「もっとしっかり前を見て歩きなさい。」
「もっと注意しなければ危ないことになりますよ。」
「もっと頑張らないとみんなについていけなくなるよ。」
「学校では規則を守って遊びなさい。」
「ルールに従わないと社会に出られないよ。」
などの「今の自分ではダメなんだ、うまくやっていけないんだ」という恐怖心を植え付けられます。
ダメな自分は親から見捨てられてしまうかもしれない。そんな不安も小さな心を締め付けます。
もちろん親は子供のためを思っての、心からのアドバイスです。
その時は、ちゃんと前を見ていないと道路から車が飛び出してきて、ひかれてしまっていたかもしれませんし、それを防ぐためのただの注意であったことでしょう。
別にこれらの注意やしつけがいけないことなのではありません。
それはそれで必要なことだったのです。
しかし、幾度となく注意され、何度も心に刻み込まれた「このままではダメなんだ」と言う思いは別の形で自分の心に反映され自己否定のタネへと成長していきます。
人は誰もが認めてもらいたいという欲求を持っています。
認めてもらえないのは辛いことなのです。
そしてこれまでの経験上、認めてもらえないのは自分には何か欠落しているからだと感じ、その足りないという気持ちは「欲しい」、「手に入れたい」という欲求に変わります。欠落した部分を補なったらより自分が認めてもらえるかもしれないと思うのです。
そのものがたやすく手に入った時は足りないものが満たされ、充足した気持ちになりますが、やがてそれに慣れてしまったり、飽きてしまったりして、もっともっととさらなる欲求が生まれてきます。
なかなか手に入らなかったときは欲求不満という苦しみになります。
この欠落感は外側にあるものでは永遠に埋まらないのです。
なぜなら片方の手で足りないものを手に入れるために躍起になっていると同時に、もう片方の手で足りないと感じさせる穴を掘っているようなものだからです。
外側にあるもので自分の欠乏感は埋まらないのだと心から感じ、自分の内側にある本当の価値に気付くことです。
そうすれば足りないものなど本当は何もなかったと理解し、存在を愛することが出来るようになるはずです。
あなたの価値は最初からあるのです。
存在することに価値があるのです。
まずはあなたからその価値を認めてあげましょう。
自分という存在を認め、心から愛してあげましょう。
私たちは自分の人生を謳歌し、命を生き切るために生まれてきた存在なのです。
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